メジャーリーグ
ニューヨーク・ヤンキースの
田中将大が入団会見を行った。
兵庫県伊丹市出身。
伊丹市立昆陽里小学校1年時に「昆陽里タイガース」で野球を始め、
4番・キャッチャーとしてジャイアンツの坂本とバッテリーを組んでいた。
打撃練習では左翼方向へのホームランを連発し、
しばしば同じ方角にある校舎の窓を直撃しかけたという。
小学校時代の最高成績は6年時の県大会準優勝。
中学校時代に「宝塚ボーイズ」で硬式野球を始めると強肩を買われて
投手も兼任するようになり、3年時には関西南選抜チームに選出された。
「野球の練習となるとその熱心さからか、しばしば周りから怖がられていた」と
当時を知る人物は語っている。
「宝塚ボーイズ」の監督・奥村幸治によると、
当初、高校は地元関西圏の有名校に行く予定だったが
諸事情から断念し、奥村の紹介で駒大苫小牧高校を見学。
当時の野球部キャプテンの人柄に惹かれ野球留学を決意したとの事。
駒大苫小牧に進学後は本格的に投手に専念するようになり、
2年夏の代87回甲子園では主戦投手として140km/h前後の
ストレートとスライダーを武器に57年ぶり史上6校目の大会2連覇に貢献。
決勝戦で優勝を決めた最後の1球は2年生では史上初の150km/hを計測した。
大会後、AAAアジア選手権大会の代表に選出され優勝。
2年秋からは香田監督に就任後初のエース兼主将となり、
秋季北海道大会では堂上を参考にフォーム改造した打撃でも決勝を含む
5試合中4試合で本塁打を放つなど活躍。
決勝では過去最多の13点差で優勝した。
その後行われた明治神宮大会でも北海道勢として初めて決勝に進出して優勝し、
甲子園では優勝候補に挙げられていたが、部員の不祥事により出場辞退となった。
史上2校目の夏3連覇が懸かった第88回甲子園では大会直前から体調を崩したが、
チームは決勝に進出。
決勝では3回途中からリリーフして延長15回まで1失点。
しかし、37年ぶりの決勝引き分け再試合となった。
再試合でも1回途中からリリーフしたが、最後の打者として斎藤に
三振で討ち取られ3対4で敗れた試合は記憶に新しい。